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ビルマ屋
その1 〜メーサイプラザ・ゲストハウス〜
雨季には、どうしてもこのゲストハウスに滞在したくない理由があった。その理由とは、宿泊しているゲストハウスの構造にあった。このゲストハウスは、小丘の斜面に貼りつくようにバンガローが建ち並んでいる。バンガローは丘の麓から建て始められ、いまでは頂き付近まで廃材を利用した木造バンガローで隙間なく埋められていて、その間を細い通路が迷路のように縦横に走っている。現在は60戸ほど建っているらしいが、これを100戸にまで増やすのだと中国系の経営者は張り切っている。その経営者の言葉を裏づけるように、いつも上のほうには建設中のバンガローが3軒か4軒は必ずあり、日中はトンテンカンテンと賑やかな音を響かせている。
隙間なくバンガローで埋めつくされているため、この丘の斜面にかかる重量は相当なものではないだろうかと想像するのは容易い。基礎工事がちゃんと出来ていれば問題ないのだろうが、ここはタイである。何事もマイペンライ(気にしない。大丈夫)で済ます寛容な人々が暮らす国である。キチンと計算されて基礎が造られ、その上に問題なく建物が乗っかっているとはどうしても思えなかったのだ。
乾季や暑季にはそれほど神経質になることもなかったが、雨の季節にここで暮らすのには相当な覚悟と勇気がいった。雨水が地中に入り込んで断層ができ、建物の重量で表層がズルリと剥がれる危険性は大いにあった。そうなると、建て増しに建て増しを続けてきた60戸を超えるバンガロー群は、一瞬にして積み木のように崩れてしまうことになる。
「こんなに自殺志願者が多いとは思いませんでしたよ」と笑いながら語ったのは、他のゲストハウスに滞在していて、僕たちの昼間の溜まり場であるレストランにたびたび顔を見せる福岡に住んでいるという30歳代の1人旅の男性。その他にも、夜通し雨が降り続くと朝早く必ず確認にやって来る、娼婦街のオンボロアパートで1人暮しをしている眼鏡をかけた幽霊のような中年男がいた。
「昨夜の雨で、こんどこそもう駄目だろうと思っていましたが、来てみるとまだちゃんと建っている。 何か、不思議なものを見る思いがしましたよ」 こんな連中には、あまり訪ねて来てもらいたくない。タイに長く住んでいるからと言って、タイ人のようにマイペンライと生きている訳ではないが、物事をあまり気にしなくなったのは事実のようだ。でも気にしようが気にすまいが、ズルリときたらもちろん命はない。そんな危険極まりないゲストハウスだが安く、そして住み心地が良いため多くの旅行者を集めている。宿泊者はトレッキング目的や辺境の旅の好きな欧米人の若者たちが多数に、その他はシンガポール人やバンコクあたりの都会から遊びに来たタイ人、そして数名の日本人旅行者であった。
ビルマ族の元高校の英語教師が住み込みで下働きの仕事をしているが、彼はここで働くようになって、やっとまともに家族を養えるようになったと底抜けな笑顔で僕たちに語り、せっせとビルマ産のガンチャ(マリファナ)やLSDなどを白人旅行者に売りつけ、その稼ぎをビルマで暮らしている家族に仕送りしていた。 ここには20歳前後の若い女性が多数住み込んで働いている。ほとんどが部屋掃除の女中さんたちだ。彼女たちはわいわいがやがやと賑やかに3、4名で部屋の中に入ってきて、暑いせいで僕らが裸体に近い格好で寝ていても、少しも気にせずに掃き掃除やタバコの吸殻の片づけをしていた。ふるさとの村にいた頃には、暑い時期には村の男らは上半身裸で暮らしているから抵抗がないと言うか、とにかく男性の裸を見なれているのは確かみたいだ。若いせいで掃除は乱暴そのもので、ほとんど埃を舞い上がらせるだけだったが、彼女たちが賑やかに部屋に侵入してくると急に薄暗い内部に光が差し込んだように感じた。
その2 〜妖怪〜
ここには他に「妖怪」と呼ばれている30歳前後の年齢の女が住んでいた。彼女はこの薄汚いゲストハウスに住みついていたが、ここの従業員ではない。彼女は宿泊目的でこのゲストハウスを訪れた旅行者に蜘蛛のように罠をしかけ、言葉巧みに誘って借りている自分の部屋に連れ込む娼婦であった。彼女が網をかけて部屋に連れ込むのは大柄なゴリラのような体格の欧米人ではなく、優しい顔立ちをした日本人男性に限定されていた。このような安ゲストハウスに宿泊しているくせに金持ちで、騙されたとわかっても警察に駆け込むことも暴力に訴えることもないと知っているのだ。
女には不思議な存在感があった。彼女は1階のレストランで網を張っているため、どうしてもそこにいる時間が長くなるせいか、結構頻繁に彼女の姿を見かけた。レストランがどんなに混雑していても彼女がいればすぐにわかった。独特のオーラを発していたのだ。
タイ語、ビルマ語、中国語、英語をハスキーな声で流暢に操り、その他に数種族語を喋れる彼女は少数民族のモン族(メオ族)ともシャン族(タイヤイ族)とも、あるいはビルマに住む中国人とも噂されている。ビルマから流れて来たのは間違いないようだが、誰も彼女の正体を知らないのだ。年齢に関しても、僕たちのような第三者は彼女を30歳過ぎのいくらか盛りを過ぎた中年女とみていたが、虜になった男性たちは女の教えてくれた24歳という年齢をどこまでも頑固に信じていて、決して譲ろうとしなかった。
そんな謎に満ちた彼女には、中国系の顔立ちをした若い彼氏がいた。色白で無口な映画俳優のようなに目鼻立ちの整った美男子で、いつも細身の身体にスーツをビシッと着こなしていた。暑い日が続き、僕たち旅行者がTシャツ1枚のだらしない姿でいても、彼だけはいつも同じ派手な青色のスーツでダンディーに決めていた。彼は、女が客を部屋に連れ込んだ日には、いつもレストランの片隅で寝ていた。10日間部屋に客がいれば10日間、それほど辛い表情も嫌な顔も見せず、片隅の長椅子に毛布1枚で横たわって寝泊まりしていた。自慢のスーツはきちんと畳み、袋に入れて盗まれないように長椅子の奥に隠していた。
その頃、つまり7月初旬頃に、妖怪は30歳ぐらいの二枚目の日本人男性を自分の部屋に連れ込んでいたが、男性がこの辺境の地に建つ安ゲストハウスを訪れた時には同じ日本人女性の同伴者を伴っていた。しかしその日のうちに妖怪に誘惑され、どんな手練手管を使ったのか知らないが簡単に篭絡し、早くもその翌日には女の部屋に入り浸るようになっていた。当然、恋人なのか旅行の途中で出会った相手なのか知らないが、同伴した女性は怒ってこのゲストハウスから出て行き、これ幸いと男性はさっそくその夜から妖怪の部屋で寝泊まりするようになった。従業員の娘らは、「あの日本人はクレージー!」と男を怒りと軽蔑の目で見るようになった。 レストランで顔を合わしても、その男性は決して僕たちとは言葉を交わさなかった。妖怪から僕たちとの交流を硬く禁じられていたのだ。しかし、妖怪の部屋に入り浸るようになって1週間目くらいに、彼はレストランに集合していつものように賑やかに雑談している僕たちのテーブル席の側に立った。彼の顔色は悪く、まるで吸血鬼に血を抜かれた哀れな犠牲者のように衰弱しきっている。僕たちの目は反射的に妖怪に向けられたが、彼女は離れた場所に1人で座っていて知らん顔をしている。目の周囲に黒い隈の浮き出た男は、神経質そうに目をしばたかせながら口を開いた。
「今夜の便でバンコクに向かいたいのですが、一番安いチケットが買えるバス会社の所在地を教えてもらえませんか?」 妖怪から精気を抜かれただけではなく、彼は財布の中身もほとんど空状態にされていたのだ。 男性は傷む胸を押さえながら、その夜バンコクに向かうためにゲストハウスを出発した。 僕たち数名の滞在者は、散歩のついでだからと気を使わせないように配慮して、本通りにある「JJカフェ」という中国系の美人姉妹が経営しているコーヒーショップに男性を誘った。彼は熱いコーヒーを啜りながら「明日の夜のフライトで帰国します」と小声で呟いた。コーヒーを飲んだあと、長距離バスの乗り場まで一緒に向かった。
その頃のメーサイには、まだ郊外のバスターミナルは完成していなく、チェンライまでのローカルバスもタークやバンコク行きの長距離バスも本通りから出発していた。コーヒーショップでもバス乗り場でも、彼は女に対する恨み言を一言も口にすることはなかった。無言を貫き通していた。でも夜行バスの乗客となったあとに、僕たちに向かって手を振りながら激しく込み上げてくるものがあったのだろう、密かに目元を涙で光らせていた姿が印象的だった。
哀れな犠牲者の去ったその翌日の昼過ぎには、さっそく妖怪は新しくこの安ゲストハウスの門を潜った20歳代の1人旅の若者をターゲットに狙いを定めた。女の隙をみて天敵の1人が若者に忠告した。それでも女郎蜘蛛の網にかかったが、彼は女の術中にハマラなかった。女郎蜘蛛の毒も妖怪の手練手管も彼には通用せず、予定通り2日後にチェンライ方面に移動して行った。若者が自分の虜にならなかったのは、あの連中が邪魔したせいだと妖怪は怒り狂い、復讐の炎を燃やした。天敵たちの抹殺に取り掛かったのだ。本当に女の恨みは怖い。
最初に被害に遭ったのは、島田さん(仮名)という名前の従業員の女性らに大変人気のある30歳前後の好青年だ。関西出身の彼は京大出身と噂され、このゲストハウスに長期滞在してビルマ語を学んでいた。従業員の娘らも、仕事の暇なときにはレストランの片隅でテキストを開いている美男子の彼の周囲に集まり、積極的に勉強の協力をしていた。その頃、島田さんはホンダの「ドリーム号」という100CCのバイクを所有していて、どこへ行くにも乗り回していた。だが、復讐に狂う妖怪からいつのまにか燃料タンクに砂糖を混入され、それを知らずに走ってエンジンを焼き付かせ、3年前に購入した大切なバイクをポンコツにされてしまった。
2人目の犠牲者は、従業員の娘たちから「テンモー(スイカ)さん」と呼ばれている、このゲストハウスの主のような50歳近い男性だ。テンモーという愛称は、彼の愛嬌のある丸顔と見事に禿げ上がった頭から命名されていた。斜面の中ほどに位置する彼のバンガローの入口には、5、6段の木の階段が設けられていた。歩くとギシギシと歪んだが、まだ危険というほどではなかった。 それなのに、朝起きて足を乗せると容易く折れた。彼の体はバランスを失って前のめりになり、階段の3段目に右手をついたのだが、その段の踏み板も簡単にポキリと折れ、顔を嫌というほど階段で打って一回転してコンクリートの通路に叩きつけられた。夜のあいだに、ほんの少し重量がかかっただけで木の階段が折れるように細工が施されていたのは間違いなかった。妖怪の仕業に違いなかったが、バイクのとき同様に証拠がなかった。 3人目の哀れな小羊は、小中さん(仮名)という名前の四国の高知から来た30歳半ばの旅行者だ。彼のこの国での滞在歴はそろそろ1年になるが、そのうちの11ヵ月余りをこのメーサイで暮らしているという変わり者だ。メーサイにはたくさんのゲストハウスがあるが、よほど気に入っているらしく、いつもここに宿泊している。妖怪の復讐も、3人目になると怒りもほとんど治まりどうでも良くなったのか、前の2人に比べてかなり執念深さに欠けているように思える。それゆえ、彼に対する場合が最も単純な方法だった。単純だが効果てき面だった。
昼近い時刻に起床して、いつものようにレストランに下りて行こうとしている彼と妖怪が、細い通路ですれ違いそうになった。妖怪は炎を宿した憎悪の目で彼を見据えると、すれ違う直前に、いきなり男性器を口にくわえる格好をしてモゴモゴとやり出したのだ。並の女性にできることではない。それを見て小中さんは完全に脅えてしまった。我々のところに蒼白な顔で飛んで来て、「僕はあの女に殺されるかも知れない。あの女は本当に恐ろしい。あの女に関わると、いずれ殺されてしまう!」といつまでもうわ言のように呟き続けていた。彼らよりも、妖怪のほうが役者が1枚も2枚も上だったのだ。
彼女は実に見事なやり方で3人の邪魔者を無口にした。ものの見事に葬ったのだ。これで彼女の仕事の邪魔をする者はいなくなり、これからはウブな日本人旅行者を漁り放題に漁れるように僕たちには思えた。だが3人の邪魔者を葬った直後に、なぜか彼女は美男子の彼氏と共にこのゲストハウスから姿を消してしまった。姿を消してすぐに、彼女たちはチェンマイに向かったらしいという噂が流れた。有名な観光地であるチェンマイには、このメーサイ以上に妖怪の好物の日本人がたくさん訪れている。だから、もっと金持ちの日本人を狙って移動したのだという、かなり無責任な噂も耳にした。
チェンマイに向かう時、妖怪はこのゲストハウスで下働きの仕事をしていた、ミゲという名前の17歳になるアカ族の美貌の少女を誘ったらしい。別に見た者がいるわけではないのだが、妖怪らとともに少女の姿も同時に消えていたので、誘ったらしいという噂が流れたのだ。ミゲは妖怪の生き方や人間性に惹かれるのか、よく彼女と会話を交わしている姿を見かけることが多かった。それに、ミゲは片付けや掃除などの仕事が大嫌いで怠けることが多く、自分勝手過ぎるという理由でしばしば他の連中から仲間外れにされていた。
その3 〜正さん〜
この辺境の地に建つゲストハウスには、さまざまな個性あふれる日本人がふらりとやって来たが、7月の中旬には妖怪と入れ替わるようにしてこんな風変わりな旅行者も訪れた。僕と同世代の北海道で農業をやっている正さんという名の、いくぶんプンプイ(太った)体型の好漢だ。以前から東南アジアに強い関心を持っていて、過去にもベトナムや解放前のラオスにも訪れたことのある彼は、ある日のことタイのイサ−ン(タイ東北部)の農村地帯が舞台になったNHKの報道番組を観たらしい。イサーンは、タイ国内で最も貧しい地方と言われ、バンコクでイサ−ン出身者と言えば貧乏人の代名詞になっているぐらいだ。
テレビカメラは、塩害で稲などの作物をやられて苦しむ農民の表情をとらえたあと、学校のシーンに移った。小学校の教室で継ぎはぎだらけの服を着た子供たちが、ちびて短くなったエンピツで懸命に勉強をしている。貴重なノートを節約するため、各ページには隅々まで小さな文字がびっしりと書き込まれている。そのシーンを見て胸が熱くなり、彼は溢れる涙を両手でぬぐいながらテレビ画面を見つめ続けていたという。貧しい少年時代を送った彼は子供たちがあまりにも不憫に思え、ノートとエンピツを多量に買い込むと勇躍イサ−ンの地に飛んだのだ。
しかし、善意あふれる彼の行動に感謝の言葉はまったく戻ってこなかったらしい。
「NHKの報道は嘘っぱちもいいとこですよ。あの報道を信じてイサ−ンのあちこちの農村を回ったけど、勉強好きの子供に1人として出会うことはなかった。喜んでくれるだろうとドキドキしながらノートやエンピツを渡すと、最初は青っ洟を垂らしたガキどもが恥ずかしがったり、なぜくれるのかわからなくてキョトンとしていたが、終いにはやると言うのなら貰っとこって態度ですからね。感動も何もあったもんじゃないですよ。やらせ・・・・。絶対にやらせ・・・・。NHKの報道はやらせもいいとこですよ」
と盛んに憤慨している。 貧乏で不幸な子供たちのために用意したプレゼントの品は、まだまだたくさん旅行バックの中に残っているらしい。「どこかに、勉強好きの子供はいませんか?」と正さんは言うが、そんな真面目な子供はもちろん僕のまわりにもいない。彼はプレゼントのノートやエンピツの他に、投網も日本からわざわざ持って来ていた。ゴルフ道具や釣り竿持参の旅行者には何回か出会ったことがあるが、さすがに投網持参は初めてだ。重量が5キロもあるらしい。これも誰かにプレゼントするのかと思ったが、投網は日本に持って帰るそうだ。
モデルの娘らは5歳から12歳くらいの年頃で、ビルマ側から来ている娘の大半が、朝早くから夕方の6時にゲートの閉まるまで橋のたもとにたむろしているため学校には行っていない。でも、このメーサイに住んでいるシャン族の少女たちはほとんどがちゃんと小学校に通っている。優しい正さんは不公平にならないように、学校に通っている娘も、家庭の事情で学校に行っていない娘も平等に集めて、「しっかり勉強するんだよ」と1人1人に日本語で言い、ノート1冊とエンピツ2、3本ずつを渡していた。それでもいくらか残ったが、残りの品々は、「何かくれるのか?」とついでに集まっていた物乞いの子供たちにすべて渡してしまった。
その日から、正さんは彼らの人気者になった。国境の川に正さんが投網を持って颯爽と現われると、それを素早く見つけた物乞いの子らやモデルの娘らが仕事を放り出して彼の周囲に集まった。正さんが移動すると、20名近い数の子供らも彼の後ろを金魚の糞のようにぞろぞろとついて回った。
「いやー、参りました。子供たちは手伝っているつもりなんでしょうが、まわりで遠慮なくバシャバシャとやってくれるものだから、せっかく良いポイントに網を投げても、投げる前に魚がすべて逃げてしまいますよ・・・・」 彼はそう語りながらも少しも嫌な表情を見せず、大きな体をゆすって楽しそうにしている。 正さんはその翌日も、投網を持って魚を取りに出かけた。この日も、子どもたちは彼のあとをゾロゾロとついて来た。やがて昼になると、彼は漁について来た子らを路地奥の民家の庭でおばあさんがやっているクイティヨ屋に連れて行き、3バーッのクイティヨ(タイのうどん)を全員にご馳走した。そのあと、子供らのリクエストに応えて町はずれの映画館に10名余りを招待した。
町はずれの映画館では、タイ製のドタバタ喜劇が2本立てで上映されていたらしい。映画の内容は別に問題なかったが、ほぼ満員の映画館内はエアコンが設備されていなかった。内部は蒸し風呂状態で、北海道育ちの正さんが耐えられる暑さの限界をはるかに超えていたらしい。1人ならすぐに出たのだろうが、映画を楽しみにしていた子供たちが一緒だった。モデルの娘もさすがに暑かったみたいで、商売用の服の上着を脱いでTシャツ姿になって映画を観ていたが、彼は汗だくの上に完全に酸欠状態で、魚のようにアップアップになりながらも映画が終わるまで耐え続けていたという。
その4 〜ビルマ人とミャンマー人〜
確か1990年頃から、タイ人の観光客や商売人は5バ−ッの通行料で国境を自由に行き来できるようになっていたが、その2年後の92年4月から?(僕の記憶ではそうだが、間違いかも知れない)やっと我々外国人もビルマサイドの町タチレクに立ち入りが許可されたばかりだった。だからタイ最北端の地メーサイに滞在を続け、僕は橋を越えた先にある異国に結構頻繁に遊びに出かけていた。
軍人が支配している隣国を、僕がミャンマーを呼ばずにビルマと呼んでいるのには理由がある。
以前ビルマ人と会話を交わしている時に、僕はその会話の中で、「あなたたちミャンマー人は」という言葉を何度か入れたことがあった。何度目かの、「あなたたちミャンマー人は・・・・」と僕が言った時、彼は苛立たしそうに僕の言葉を遮った。 「ミャンマー人という言葉を頻繁に口にしているが、そんな連中がどこにいる? 俺たちはパマ(ビルマ)ピープルだ。ミャンマー人ではない。何か勘違いしていないか?」 ミャンマー人と呼ばれることを嫌悪しているのかと思っていたが、そうではなかった。ミャンマーという国名を知らなかったのだ。不思議な話だ。多くの国民や民衆に馴染みがなく、一部の知識人か、政府の中枢にいる連中しか知らないミャンマーという国名。一般の日本人にはビルマという国名よりもミャンマーと言う名前のほうに馴染みがあって、わが国ではビルマと言う国名は過去のものになっているのは確かだ。でも、外国人からミャンマー人と言われて、盛んに首をひねるミャンマー人。彼らは、「俺たちはビルマ人だ」と胸を張る。ビルマ人であることに誇りを持っている。そんな人々を僕は、現政権がそのように国名を変えたからといって、単純にミャンマー人と呼ぶことはできない。
タイ人には、2年ほど前から国境を越えることが許可されていることは、先ほど述べた。だから、彼らに紛れてタイ人以外のアジア系の旅行者、(その多くは日本人だったが・・・・)そして好奇心の強い者たちは、逮捕の危険を犯してでも国境の橋を渡って不法にビルマ側に入国していた。僕も、過去に3度不法に国境を越えたことがある。なぜ越えたのか、と問われても返答に困る。対岸の風景を毎日毎日眺めていると、ある日、ふと魔が差したというか衝動的につい越えてしまっていた、というのが僕の場合の本音だ。その時は橋を渡ったのではなくて、1度は乾季の水量の少ない頃だったので川の浅瀬を歩いて渡り、1度は5バーッを支払って地元の人と共に橋の200メートルほど上流を渡し舟で越えたのだ。
2度とも1人で行き、国境の橋の付近でパキスタン人の商売人からタバコのマイルドセブンを2カートン買った。ビルマでは関税がかからないため、マイルドセブンが日本国内の半値以下の値段で購入することができるのだ。買物の他は、ロンジーと呼ばれる腰巻を巻いた色の浅黒い男性たちが多数たむろしている喫茶店のようなところに入り、彼らに注目されながらミルクと砂糖の多量に入った甘いお茶を飲んで帰ってきた。
2度とも僕の場合は何も問題なく、1時間ほど向こう側にいて無事に戻れたが、密入国して逮捕された外国人はもちろん大勢いる。そんな時は、所持金すべてを賄賂として巻き上げられて解放されるらしい。兵士たちが賄賂欲しさに、浅瀬を不法に渡る旅行者を根気よく待っているという噂を耳にしたことがある。外国人旅行者がちょっとした冒険のつもりでおそるおそる浅瀬を徒歩で渡って対岸に上陸すると、物陰から小銃を脇にはさんだ国境警備に携わっているビルマ軍兵士が落語家の桂三枝よろしく、「いらっしゃい〜!」と言った感じで現われるのだ。
逮捕されても、俺はタイ人だと頑強に言い張った白人男性がいた。髪だけは黒々としていたが、180センチを越える長身で、彫りの深い欧米人風の顔立ちはどう見てもアジア系人種には見えなかった。彼は下手なタイ語を駆使して、「俺はタイ人だ。だから逮捕は不当だ!」と声高々に叫んでいたらしいが、もちろん誰も彼の言葉を信じるわけがなかった。ほんの少しの賄賂?あるいは罰金で済むのに、支払うのが嫌で男はタイ人だとどこまでも頑なに主張し続けたという。頑固に身分をいつわり続ける可愛げのない貧乏旅行者の態度に、担当官も最後にはプッツンとなり、結局彼は留置場に放り込まれたまま数日間わずかな食事を与えられただけで放置され、最後には首都のラングーンに護送されてしまった。そのあとの彼の身がどうなったのか誰も知らない。
僕はメーサイから3度ビルマに密入国したのだが、まだ2度の説明しかしていない。3度目の時は1人ではなく、タイのメーチャン周辺の山岳地帯に住むアカ族の男女5名と共に国境を越えた。僕が以前から親交のあった彼らに、タチレク近くのアカ族の村にぜひ行きたいと頼んだことから案内してくれたのだが、同行した彼らもいろいろと向こうの村に用事があったみたいだ。その時はタイの身分証明書を所持する2名が橋を渡り、他の3名が僕と一緒に渡し舟でビルマに入った。
そのあと、ピックアップ・トラックの荷台に乗って、タチレク郊外の平野部に築かれたアカ族とカチン族の混在する戸数50ほどの村に入り、同行したアカ族の人々の用事の済むまでそこで3泊した。その間、村に隠れ潜んでいたわけではなく、タイ側にいる時とほとんど同じように行動していた。滞在している村だけではなく、その周辺でもタイ語での会話は完璧に可能であった。僕は村に滞在している間、カチン族の民家の完成祝いにも出席したし、近くの村のアカ族の結婚式にも、アカ語の苦手なアカ族として出席した。
朝6時に国境のゲートが開くと、ビルマサイドから天秤棒を担いだ商売人や労働者や物乞いたちがどっと流入してくる。それと同時に、さまざまな民族服姿の少数民族も橋を渡って入国してくる。そんな連中を眺めているだけで飽きない。町には活気があり、日々新たな感じだ。やがて色黒で目つきの鋭いパキスタン人がちらほらと姿を見せ始め、アメリカ製や日本製のタバコや、旧日本軍が残したという軍票を買わないかと到着したばかりの旅行者に声をかけてくる。
軍票には、日本軍の将軍用の軍服を着用した人物が描かれているが、その顔はなぜかスーチー女子の父親であるアウンサン将軍に酷似している。タバコや軍票の他には漢方薬(熊の胆や鹿の角、オットセイのペニス等)や、まがい物や傷物の宝石などが売られている。傷物でもイミテーションでも、そして商品価値のまったくないようなものでも、売れる物は何でも売るというのがパキスタン商人のやり方だ。
朝8時頃、そろそろ観光旅行者の姿が見え出そうとする時刻に国境の橋のたもとにパラソルの花が咲き始める。強い陽射しを遮るパラソルの下にはショーケースがズラリと並び、その傍らの椅子にビルマのシャン族やアカ族の妙齢の娘たちが優雅に座っている。だいたい一つのショーケースを1人の女性が担当しているみたいで、ケースの中にはまばゆいばかりの輝きを放つ宝石類が収められている。宝石類はそのほとんどがイミテーションで、1個5バ−ッから10バーッぐらいの値段で仕入れてきたものらしい。売値は300バーッぐらいから上限はない。いくらで売れるかは、美しい販売員らの腕にかかっているのだ。
彼女たちは販売する時に、「ビルマの山奥で採取した美しい宝石みたいな石」と説明するらしいが、それももちろん嘘で材質はガラスである。彼女らは朝8時から夕方の5時頃まで店を開いて商売しているが、1日か2日でたったの1個、魅力的な少数民族の美女にお近づきになろうと声をかけてきた、鼻の下を伸ばした甘ちゃんの旅行者が買ってくれれば充分やっていけるため、それほど商売にガツガツしていない。冷やかしと気づけば、たとえ金持ちの日本人であってもすぐに説明をやめ、商売用の笑顔を凍らせる。たとえば、僕らのような長期滞在者がショーケースを覗いて説明を求めても、彼女たちは無視してソッポを向いているのだ。
メーサイに滞在している間、国境の橋のたもとには飽きることなく毎日のように出かけて行った。メーサイ滞在を続けている正さんとも一緒に出かけた。彼がノートとエンピツを配ってくれたおかげで、僕もモデルの娘らとごく自然に親しくなることができた。彼女たちは写真を撮られることを仕事にしていたが、ある日カメラを持って彼女らの群れの中に入って行くと、暇そうにしていた娘らが集まって来て自分を撮ってくれと騒ぎ出した。カメラの前に数名を並ばせると、少女たちは最も良いポジションを確保しようと他の娘を押しのけてポーズを取っている。もちろんモデル料は無料で、写真は現像してすべて彼女らに渡した。
真昼の暑い時間はとても部屋の中にいられたものではないのでレストランに下りて行って、顔馴染の日本人旅行者たちと世間話や情報交換をしたり、何ども読んでぼろぼろになった文庫本を開いて時間を潰した。それでもどうしても暑さの堪らない時には、僕1人か、もしくはレストランで涼を取っている連中を誘って近くの寺院に向かうことにしていた。低い山の中腹に建つその寺院の境内には小さな洞窟がある。
洞窟に足を踏み入れると、内部はヒンヤリしていてすぐに汗が引いた。天然のエアコンだ。
細い通路には灯が点されている。その奥は少し広い空間になっていて、正面の一段高いところに幾重にも金箔の貼られた仏像が安置されている。静かで安らげる空間だ。時折そこでは修行僧や尼僧が座禅している姿に行き合うことがあるが、そんな時は彼らの邪魔にならないように静かにしているか、無言で片隅に座り、彼らのように座禅を組むことにしている。
その5 〜タチレク名物のサイコロ博打〜
ビルマ側への入国料は米ドルで5ドル。テーマパークに入場するのと感覚的に近いものがあった。国境の橋のたもとには、色取り取りのパラソルの花が咲いている。その下で美形のシャン族やアカ族、あるいはイスラム系の彫りの深い顔立ちの娘らによってショーウインドーの中のイミテーションの宝石が売られているが、その裏に隠れるようにして銀行の立派な建物が建っている。僕はビルマに入国する時には、いつもそこでタイバーッを5ドル分、米ドルに両替することにしていた。
両替を済ますと、国境の長い橋を歩いて渡ってゲートを越え、ゲート脇の小屋で5ドルを渡して書類を作成してもらう。その粗末な小屋はタイ側のイミグレーションで、少し歩くとビルマのイミグレーションが見えてくるから、そこで役人にバスポートを預けてビルマに入国する。通りの右側の路地にはたくさんの屋台が出ていて、買物好きなタイ人旅行者やツアーの白人旅行者で賑わっている。屋台や商店ではジャンバーやセーターなどの衣服や毛布、質の悪い中国製のCDや子供のおもちゃなどが販売され、同じく屋台では中国産のあまり美味しくなく見た目も悪いリンゴや梨やブドウが売られている。
橋の通りの右側は屋台で賑わっているが、左側の路地にはほとんど普通の観光旅行者は足を入れることはない。ひっそりとしている。階段を下りてその路地に入り進んで行くと、やがて商店の前の路上で円形に人だかりがしているのが見えてくる。そこで、サイコロ博打が行われているのだ。そんな人だかりが通りの中央に10メートル置きぐらいに5、6ヵ所できていて、どこも美貌のシャン族の娘が胴元をやっている。サイコロ博打の固まりは道路を完全に占拠しているが、車や人々の通行の邪魔になるようなことはけっしてない。なぜならその通りをけっして車は通ることはなく、通行人はギャンブル目的で来た連中ばかりなのだから・・・・。
僕がそんな連中の固まりの一つで足を止めて後方から眺めていると、たいていは胴元を任せられている20歳そこそこのシャン族の妙齢の娘が、前の方に陣取って5バーッほどの小銭を賭けている連中に向かい、眉間にシワをつくって大声で怒鳴りはじめる。日本人の上客に早く場所を空けろというわけだ。その剣幕の凄さに、いつも最前列の特等席に座っている男性の1人が、すごすごと立ち上がって場所を空けてくれた。
ビルマ風化粧の「タナカン」を顔に塗った胴元の女性は、険しい表情を見せて怒鳴った直後に僕のほうに顔を向けるのだが、そのわずかなあいだに美しい笑顔に表情を変化させているのだ。なんという早業なのだろうか。それあと僕は、席を譲ってくれた男性や胴元に礼を言って最前列の特等席につくことになる。最前列には小さな椅子がいくつか置かれている。それは山岳に入っていた頃にリス族やラフ族の民家などで見かけた手造りの椅子によく似たもので、鼻緒の付いていない下駄を思い浮かべてもらえばわかりやすいと思う。
サイコロ博打に話を戻すが、路上でサイコロを転がすのではなくケースの中で転がすのだ。それも手ではなく、ヒモを引っ張ると上のほうから転がる仕組みになっている。ヒモは胴元の娘が引くこともあれば、賭けている客連中が引く時もある。かなり大きめの木製のサイコロには象や孔雀やタイガーの絵が描かれている。固紙に描かれた絵にお金を張り、2個のサイコロを転がして絵が合えば掛け金は2倍になり、たとえばサイコロが2個とも象の絵で象に張っていれ4倍の配当が戻ってくる仕組みになっている。
僕は賭け始めの頃は1度に10バーッか20バーッぐらいの小銭を張っていたが、ギャンブルの常でだんだんと張る額が大きくなっていき、やがて50バーッになりすぐに毎回100バーッ札を6種類の絵のどれかの上に置くようになった。序盤と中盤は好調で、いつも終盤に負けて帰るというのがお決まりのパターンだった。僕が賭けに勝つたびに歓声が上がり、背後で観戦している連中が肩を叩いたり、肩や腕をマッサージして祝福してくれる。祝儀でも貰おうともくろんでいるのか、1度か2度くらいなら良いが勝つたびに毎回なのだから迷惑この上ない。穏やかな声で、もう肩を揉むのをやめてくれと頼んだが、それでもやめようとしない。悪気はなさそうだから、好きにさせておいた。
ぐるりを彼らに取り囲まれていて、風が通り抜けないから暑くて堪らない。僕はだいたいいつも同じ場所でサイコロ博打をやっていたが、その隣の路上にも4、5名の小さな賭けの輪ができ、22、3歳ぐらいのジーパンをはいたスタイルの良いすこぶる美形の女が胴元をやっていた。でも女の色香に誘われて、そちらに移動しようとは1度も考えなかった。そこでは、観光で訪れたタイ人男性がよくカモになっていたからだ。
家族ぐるみ?(おそらく)で1名か2名のタイ人客をカモにしているのだ。若い娘が胴元をし、その兄貴らしい大柄な男と父親が客を装っていた。そして、40歳代の母親が笑顔でカモにする客を集めていたのだ。父親は真剣な表情だが、30歳ぐらいの体格の良い息子は緊張感のないこと甚だしく、ギャンブル中もしきりに欠伸をしている。そしてカモにされているタイ人は、自分がカモにされているとも気づかず負けを取り戻そうと盛んに油汗を流して賭け続けていた。
僕はいつも中盤頃までは好調だったとさきほど述べたが、ある日やはり1人で出かけて行った時のこと、その日も序盤から中盤にかけて大変に調子が良くかなりの額を勝っていた。そして勝つたびに、背後の連中による肩や腕への祝福のマッサージは相変わらず続いていた。金はいつもズボンのポケットに入れるようにしていたのだが、たまたま勝った200バーッの金を不注意にも半袖シャツの胸ポケットに入れてしまった。
その金が手品のように消えるまで何分もかからなかった。その次のゲームに集中した直後に、はっと気づいた時にはものの見事に消えていたのだ。シャツの胸ポケットから抜いたのは間違いなく背後にいた誰かだろうが、僕は何も言わなかった。騒いだりしても無駄だとわかっていたからだ。たとえ大声で騒いだり、追求したところで盗んだ者は素早く姿を消しているに違く、消えたお金の戻ってくる確率は1%もなかったのだ。そして、200バーッを失った時を境にしてツキにも完全に見放され、その日僕はいつものように最後には負け、橋を越えてタイ側に帰った。
その6 〜タチレクの置屋〜
毎日のように国境を越えてタチレクの置屋に行く30歳前後の小柄な日本人がいた。すぐに馴染みの女ができたらしく、本当に連日置屋にいく目的のためだけのためにせっせと国境を越えていた。やがて彼は国境を越えるために必要な5ドルの金がもったいないと考えるようになったらしく、橋を渡らず、少し上流に地元の人が利用する渡し舟が出ているがそれに乗ってビルマ側に上陸するようになった。渡し賃は5バーッ。橋を渡るよりもかなり安いがもちろん合法ではなく密入国であり、国境警備兵に発見されたら逮捕の対象になる。
その渡し賃も不経済と考えるようになったのか、彼はやがて川の浅瀬を拾って歩いてビルマに入国するようになった。そして、ある日のこと暗くなってゲストハウスに戻ってきて、突然女を身請けすると騒ぎ出し、その翌日、可哀想な女性を救うためにカンパを募りたいと言いだした。彼の所持金はほとんど底を突きかけていたらしい。馴染みの女を身請けするための苦肉の策らしいが、彼の目論み通りにはカンパは集まらなかった。そんな理由のために、大切な金を出す旅行者はいなかったのだ。彼は、言葉を尽くしても協力しようとしない旅行者に対して、「薄情者・・・・、苦界に沈んで悲しんでいる女を、可哀想とは思わないのか・・・・」と身勝手な怒りを爆発させていたが、しばらくして彼の姿はゲストハウスから消えた。
タチレクの置屋で働いている彼の馴染みの娘も、おそらくはビルマのシャン州全土で暗躍している女衒によってどこかの村の農家から安く買われて来たのだろうが、メーサイには娘買いの連中によって集められた貧しいシャン族の娘らが数日間滞在する住宅が何軒か存在する。国境の橋のたもとからメーサイプラザ・ゲストハウスに向かう道のほとりにも1軒あった。外見は普通の民家そのものだったが、その家はいまでもその商売を続けているのだろうか。その家は中継地の役割を果たしていたのだ。美しいシャン族の娘たちはその民家で数日間を過ごしたのち、需要の多いバンコクやハジャイやリゾート地のプーケット島などの各地に送られ、やがて働かされることになる。
島田さんにしろ小中さんにしろテンモーさんにしろ、そして僕自信にしろ置屋の女の身請けを真剣に考えた青年にしろ、妖怪の虜にされた哀れな若者たちにしろ、何物かに突き動かされるように北へ北へと向かいこのメーサイの地にたどり着いていた。北へ向かうにつれて女性たちは色白に、そして美しくなっていったが、残念なことにこれ以上先に進むことはできなかった。なぜならば、国境というものが邪魔をしていたからだ。
あの山の向こう側に沈む夕日を追いかけるようにして、ビルマの地にどこまでも足を踏み入れることができたらどんなに幸せだろうかと思う。だが、それは僕たちに許されていなかった。許されているのはせいぜいビルマの入口のタチレクに出かけてサイコロ博打をするか、彼のように国境の向こう側のバンサオ(置屋)に入り浸って、湿った硬いベッドの上で憧れの地から来た美しい女を抱くぐらいが関の山だ。僕たちは欲求不満になっていた。
長く滞在を続けていた正さんがスコータイに向かったために、北の果ての地に建つゲストハウスもかなり寂しくなっていたが、ある日チェンライから春さんという人が僕を訪ねて来た。彼は、「教授」と呼びたくなるような上品な風貌をしている。実際に、彼を指してそう呼んでいた長期滞在者もいたぐらいだ。もちろん大学で実際に教鞭を取っていたわけではないが、眼鏡をかけた色白の顔は理知的で、ウエーブのかかったシルバーグレーの髪は男性でも思わず触ってみたくなるほど美しかった。そして、彼が前髪を左手で掻き揚げるしぐさは実にサマになっていたのだ。
髪の色から判断して50歳近い年齢と勝手に思っていたが、ある時年齢を聞いてみると僕よりも年下の30代後半だった。それに外見的には知性の固まりのように見えたが、喋ると趣ががらりと変わった。彼の話の内容は、その80%以上が女性に関する話題なのだ。
「カワサキさんは、ターク県のメソットには行ったことがありますか?」
ゲストハウスのレストランで半年振りに顔を合わせると、開口一番春さんは上品な顔をアップにして、そう叫んだ。「カワサキ」とは僕のことだ。僕の姓の「カワ**」に近いせいで、2年前に初めてこのゲストハウスに宿泊した時に陽気な女中さんたちから命名されたのだ。
日本人の名前は記憶しにくいみたいだが、カワサキもホンダ同様にバイクのメーカーとして知名度が高いせいで、ビルマの奥地から来た彼女たちも良く知っているのだ。ちなみに、その時僕と一緒にチェンライから移動して来た「ヤマ**さん」は、彼女たちから「ヤマハ」と呼ばれていた。それに、愛用のホンダのバイクを妖怪にポンコツにされたこのゲストハウスの長期滞在者の島田さんは、一時期女中さんたちから「ホンダ」のニックネームで呼ばれていた。
「いや、ないですよ」
と僕は言った。 「そうですか?ビルマのカレン州との国境の町ですけど、聞くところによると、滅茶苦茶に面白い町だという噂がありますよ。そのメソットと言う町は・・・・」
「ほー、そうですか!」
「バンコクから来た旅行者から聞いた話ですけど、バンコクで暮らす日本人駐在員数名が毎週週末になると、車で遥々とその国境の町まで遊びに行ってるみたいです。どうも連中は置屋に行ってるらしく、遊びなれた駐在員が何時間もかけて行くぐらいだから、メソットの置屋は相当に面白いのではないだろうかという結論になったわけです。今回の滞在もそろそろ3ヵ月になりますから、嫌でもまたマレーシアに向かわにゃならんのですが、マレーシアに行く途中一度足を伸ばしてみようかと思っとるんですよ。それで、カワサキさんを誘いにわざわざこのメーサイまでやって来たというわけです」
キッカケさえあれば、すぐにでもどこかに移動を考えていた僕は、春さんと行動を共にすることに決めた。その翌々日には長く滞在を続けたメーサイプラザ・ゲストハウスを離れることになったが、春さんは結婚の約束をした女性がチェンマイにいると言うので、メソットに向かう前にチェンマイで一泊することになった。チェンマイと聞いて、妖怪とゲストハウスの従業員だったミゲの顔を思い浮かべたが、彼女らとの偶然の再会を期待している自分を発見して苦笑した。僕は妖怪を決して嫌いではなかったのだ。春さんと僕は、昼少し前に親しい連中に送られてゲストハウスを出た。雨季時の爽やかな晴れ間の中をリュックを背負い、徒歩でバス乗り場に向かい古都チェンマイ行きのバスに乗った。
つづく |